ニューヨーク、今んところブルックリン派です。

慣れ親しんだNYからLondonに武者修行。自分で言うのも何ですが、激動のロンドン生活を経て再びニューヨークへ!落ち武者?凱旋帰国?さあ、どっちなんでしょう...日本、ロンドン、ニューヨーク、どこへ行っても上手く枠にはまれない、はみだしオヤジのつぶやきブログです...

カテゴリ: 海外生活

ようやくコロナ感染拡大によるパンデミックも収まり、いよいよロックダウン解除に向けて気持ちを切り替えて行こうって矢先に起きた悲劇。日本ではあまり大きく報道さてていないかもですが、5/25にミネソタ州ミネアポリスでジョージフロイドさんという黒人男性が偽造通貨を使ってタバコを買おうとして警察に捕獲され、地面に寝そべった状態で彼の首を白人警官が膝で約9分間押さえつけ続けたことが原因で死亡した(警察のレポートでは死亡は2日後で警官がフロイドさんの首を膝で抑え続けたことが直接の死因ではないとしていますが...)。その時居合わせた一般人が投稿した現場の映像がSNSで拡散され、“I can’t breathe “ (息ができない)と訴えているフロイドさんの悲鳴を無視し、圧をかけ続けた白人警官。その後、その警官は殺人容疑で逮捕されましたが、その残虐非道な行為に対する怒りが全米に広がり、デモは収まる気配がありません。“I can’t breathe”、この言葉が全米でコロナに苦しめられ、経済的にも精神的にも、もがき苦しんでいる国民感情と完全にシンクロ。

コロナによるロックダウンで全米での失業者は4000万人を超え、特に黒人の感染者や死亡者が圧倒的に多かった事と人種差別が深く関わっている事、今まで散々苦しめられ、虐げられてきた黒人さんたちの鬱憤が今回の事件で一気に爆発。今回ばかりはもういい加減にしろ!って感じで白人の若者たちも一緒にデモ行進に加わり権力による弾圧に対する反発と黒人差別反対を訴えています。

と、ここで事態を早期に収束させるために国のトップの発言が凄く重要になってくると思っていたのですが、ある意味予想どおり、トランプ大統領の発言が火に油を注ぐ形に。

とにかく、今回の悲劇の根本的な問題、黒人差別に対するコメントは極力避け、平和的に行われていたデモのほんの一部の暴徒化した人達に対する非難を高らかに叫び、挙げ句の果てには騒ぎが治らない場合には軍事による制圧も辞さないと宣言。力には力で抑え込むと。なんでそういう事いうかなあ...この機を利用して暴徒化した人達は許せないのは当たり前なんだけど...もうちょっと別の言い方無かったのかなと。拳を突き上げてる人に拳を突き返したんじゃ騒ぎが収まるわけないでしょ。

ということで、全米大混乱中ですが、言われなくてもずっと自粛してるので、普段の僕の生活は殆ど変わりがありません。ちなみに今日からニューヨークでも夜の11時以降(6/02から夜8時以降)は ”curfew”(直訳すると門限。夜間外出禁止ですね。)になりました。

なので、2ー3日前から夜はずっとヘリコプターが飛んでいる音があちこちで聞こえてきます。

そりゃね、どこ行ったって差別はありますよ。でもね、やっぱりアメリカが抱える闇は本当に深い。生半可な気持ちで生きてる人間は到底ここではまともに生きていけない。

この地に足を踏み入れてからずっと持ち続けていて、いつまで経っても拭い去れない感情。ここは僕にとって昔も今もやっぱり戦場だったんだなと。それにしても最近、戦場過ぎでしょ。

コロナに武器を持った人種差別者に暴徒を装った犯罪者にと敵敵敵の世の中で今日も無事に生き延びられた事に感謝。






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早朝に携帯が鳴った。姉からだ。携帯を取る直前、親戚からのメッセージが山のように入っているのが見えた。嫌な予感がした。

"お母さんが亡くなったよ。"

電話口で姉がそう言った。それから後のことはあまりよく覚えていない。

"おかん、あのネックレス気にいってくれたんかなあ。"

ぼんやりそんな事を考えていた。

  

8年前に父を亡くした時も臨終には立ち会えなかった。自分でも信じられないくらい動揺し、お葬式でも火葬場でも人目を憚らず涙した記憶がある。父の命を奪ったのは肺がんだった。とにかく悔しかった。なんでもう少し長く生きてくれなかったのかと。 


家族を顧みずギャンブル狂で母を泣かせっぱなしだった父を、幼少の頃は恨んだりしたこともあった。
母と姉と自分の3人で父の帰りを待ちわびた日は数え切れない。帰りが遅い日は会社の同僚と飲みに行っているか麻雀屋に入り浸っているかのどちらかだった。

"ブンブーン"

"お父さんだ!"

満面の笑みを浮かべ、キッチンへ向かう母。

父は車を停める時、必ず2回エンジンをふかすので、すぐに父だとわかった。その音がしたら玄関まで姉と二人で走っていって父を出迎えた。父は休日もゴルフか麻雀であまり家にいなかったので、父と一緒に過ごした楽しい思い出はほとんどない。唯一印象に残っている楽しかった思い出は家族みんなで巨人戦のナイター中継を観たことくらいだ。父の影響で自分も巨人ファンになってしまったが、おかげで10歳まで住んでいた大阪でもそのあと移り住んだ広島でも肩身の狭い思いをした。


"僕は父が大嫌いでした。"

で、始まった喪主の挨拶は父の弟にあたるH叔父さんが、あれは良かったと今でも褒めてくれる。

九州の福岡の大学を出た後、突然アメリカに渡ると言い出した自分へのまわりの風当たりはきつく、みんなから一斉に反対された。最初は父も大反対していたが、一度言い出したら後に引かない頑固さは父譲りだ。 

"お前の人生じゃ、勝手にせい。" 

最後はそう言って、それから後は、父がアメリカ行きを一番応援してくれた。

父とは高校卒業後に交わした唯一の約束があった。それは病気が原因で大学に行けなかった姉を想い、不公平にならないように、これからは自分の力だけで生きていくということだった。だから大学時代はバイトに明け暮れた。アメリカ行きを決めた後、自分が真っ先にしなければいけなかったこと、それは資金調達だった。親に頼るつもりは毛頭なかった。
 
大学卒業後の半年間は、留学資金を少しでも早く貯めるために3畳一間でキッチンもトイレもシャワーもない家賃1万の部屋を間借りし、バイトを3つ(日雇いの土方、ビルの害虫駆除、パチンコ屋)掛け持ちした。土方がある日は炒り卵と鰹節に醤油をかけたごはんの弁当を持参した。お決まりの夕食はソーセージが入ったパンと500mlのコーラ一本。1日に食事に使うお金は200円と決めていた。幸いパチンコ屋でのバイトは賄い付きだったので、そこで死ぬほど食い溜めした。賄いを作ってくれるおばちゃんにはいたく気に入られ、僕が席に着くなり特大の白飯とみそ汁を出してくれて、

"ご飯とみそ汁はおかわり自由やけーね、しっかり食べんしゃい。"

と、いつも優しく迎えてくれた。シャワーは無料で会員になれる時にスポーツクラブの会員になっておき、後はジムの使用料だけ払ってシャワーを浴びた。

"パーソナルトレーニング受けませんか?"

と、ちょくちょくトレーナーの人に声をかけられて、しどろもどろで誤魔化して足早に帰ったことも多々あったが、シャワーだけは欠かさなかった。きっと様子のおかしい奴だと思われていたに違いない。

そして、ようやく貯まった270万を持ってニューヨークに渡った。そのお金も渡米後半年であっという間に留学斡旋会社と学生寮の支払いと学費に消えていった。無謀だった。本当に夢しか無かった。それでも応援してくれた父には早くアメリカで一人前になった姿を見せたかった。いや、変にカッコなんかつけずに、もっと早く帰郷して中途半端なままでもいいから、父とさしで酒飲んどけば良かったなと、今では思う。
あの当時の自分はニューヨークでもがき苦しみ、先が全く見えない自分の人生を憂い、絶望に押しつぶされるのに必死で耐えるしかない日々をただ悶々と過ごしていた。それでもなんとか持ちこたえ、人並みの生活ができるようになったのは30歳を過ぎてからのことだ。 


父が亡くなった時、自分は30代の後半になっていた。父亡き後、残されたのは若い時から病弱な母と、だいぶん前に離婚して職もなく、これまた病気がちの姉、そしてその頃にはちゃんと職もありアメリカでの生活は既に10年を超えていた自分。どう考えたって自分が日本に帰って残された家族の面倒みるべきだった。 親戚も周りの人たちもきっとそう思ったに違いない。 

"なにフラフラしとんの、なんでもっと早く日本に帰って来んかったんね。"  

父のお葬式の日、叔母に言われた言葉がしばらく頭の中から離れなかった。 

それから家族でいろいろ考えて、結局母はグループホームに、姉は以前住んでいた場所のすぐ近くに一部屋借りて、自分はアメリカに戻ることになった。アメリカでまだ何もなし得ていないのに、全部捨てて日本に戻るという決断があの時どうしてもできなかった。もしあの時、自分が日本に帰っていたらみんな幸せに暮らせたのだろうか? 母はもっと長生きできたのだろうか? 僕が日本に帰ることで本当にみんなを幸せにすることが出来たのだろうか? それはその道を選ばなかった自分にはわからない。ただ言えるのは、自分があの時日本に帰ってみんなの面倒をみたって、到底自分一人の力では家族全員を支えきれなかったということ。せめて経済的に家族の支えになるためにはアメリカでの仕事を続けるしか道が無かった。無力だった。それでもあの時、こんな自分でも何かもっとできることがあったんじゃないかという自責の念は今でも消しさることができない。  

母は数年前にも脳梗塞で倒れ、一度死にかけている。奇跡的に一命を取り留めて、普通に話ができるまでに回復したが、記憶は途切れ途切れで辻褄が合わないこともしばしばだった。話の内容からすると、自分がアメリカに行ってからの記憶がほとんど抜け落ちてしまっているようで、それでも不思議と話は通じた。なぜならこんなにボケてしまっていても、自分のことはちゃんと息子として覚えていてくれたからだ。昔から母は天然だったのである程度の免疫はすでにあったし、さらに記憶障害と痴呆が加わった母との会話はそれはそれで楽しかった。生きて話ができているだけでも奇跡、本当に奇跡だった。自分のことを10歳も20歳も若いと信じていて早く家に帰ってまた働きに出るという母。もう帰る家なんてないのに。こんな母親を見て胸を締め付けられない息子なんていない。 

一昨年のお正月も去年のお正月も母に会いに行き、最後に一緒に食べたのは確かケーキだったと思う。母は昔からマロンケーキが大好物だった。

"おかん、何食べたい? "

"なんか美味しいもん買って来て。甘いもん食べたい..."

"ほんなら近くのコンビニでなんか買ってくるわ。"


 母が患う病気の中で一番長い付き合いの糖尿病。本当は食べちゃいけないのに一個全部食べてしまい、ペロッと舌を出す母。後で血糖値が凄く上がっていて、ホームのスタッフの人にすごく怒られた。 

"おかん、また夏に会いに来るから。みんなの言うことよく聞いてそれまで元気で待っとくんやで。" 

母にそう言って、普段はそんなこと絶対しないのに、急に母にハグしたくなって、母が腰掛けてたベッドの横に座って母にハグをした。大人になってから母にハグをしたのは後にも先にもその一度だけだ。 

もうここでいいからって言ったのにエレベーターの前まで見送りに行くって言い張る母。足も悪く、今では歩行補助器なしではろくに立つこともできないのに。 

"待ってるよ、また来てな。" 

エレベーターのドアが閉まる直前の母の寂しそうな顔。それが母との最後の別れだった。 

母の体の具合があまりよく無いと事前に聞かされていたので、もしかしたらこれが最後になるかもしれないと覚悟していたが、この調子なら後10年くらいはピンピンしてるんじゃ無いか、レントゲンに映ってた肺の大きな影だって本当は何でも無くて、すぐに消えてしまうんじゃ無いかと思えるくらいだった。いや、ただあの時はそう信じたかっただけなのかもしれない。 

母との最後の別れは父の時とは明らかに違った。お葬式の時も火葬場で母のお骨を拾う時も父の時ほど取り乱さなかったし、本当はもっと悲しいはずなのに、涙は流れてもどこか冷静でいられる自分にがっかりもした。でも、それは多分、母に自分の思いが最後にちゃんと伝えられたからなんじゃないかと自分で勝手に解釈している。 

母が亡くなる直前の10日は母の70歳(古希)の誕生日で、何かお祝いを送ってあげようと考えていた。ここ数年は電話してもほとんど会話にならず、ホームのスタッフの人に間に入ってもらってようやく会話が通じる状態だったので、電話で直接お祝いの言葉をかけてあげるのは諦めて、手紙を書くことにした。。小さい時から筆不精で、自分でも解読不能なほどひどい文字を書く自分が母に手紙を書くなんて、自分でも驚いた。どうしても書かなきゃいけない。そういう思いが湧き上がってきた。そして、母にどうしても伝えたかったこと。それは産んでくれてありがとうってこと。 

"今あんたが生きてるのは未熟児で生まれて医者にも見放されたのに、諦めへんかったお母さんのおかげなんやで。今でも生きてるのは奇跡なんやで。感謝しいや!"  

この話は幼少のころ散々母から聞かされた。小さい時はそんな話をされてもピンと来なかったが、此の期に及んでようやく母に感謝の気持ちを伝えたくなった。たぶん電話で話が出来ていたとしても素直に言えなかったかもしれない。だから手紙で思いを伝えたのは我ながら良いアイデアだったと思う。最後に、今アメリカで飯が食えているのは絵を描くのが上手だった母の血を継いでるからだと書き添えて、ニューヨークで買った一粒の真珠のネックレスと一緒に母の誕生日に間に合うように送った。 

"お母さん、すごく喜んでいらっしゃいました。 もうすぐホームで3月生まれの人の誕生会があるので、その時にお披露目しますね。" 

と、グループホームでいつもお世話になっていて家族のように接してくれるHさんからE-メールをもらい、元気そうな母の様子を伝え聞き、少し胸をなでおろす。 

それから3週間後、母はあっさりと逝ってしまった。"気分が悪い" 、と言ってホームのスタッフの人に付き添われ、歩いて病院へ行った次の日のことだった。ホームのHさんも姉も自分に電話をする間もないほどの急変だった。 




母のお葬式の日、叔母が自分のおでこをパンッと叩いて一言、 

"なにしとるの、なんで日本に帰ってこんの?この馬鹿たれが。" 

フラッシュバックした。 8年前の父の時と同じだ。 




母のお葬式が終わってもうだいぶ経つのにいまだに実感がわかない。海外で親と離れて暮らすことにすっかり慣れてしまっていた自分は、未だに母の死をリアルに受け止められないでいる。そばにいないけど、どこかにいるのが当たり前なのが親。それは自分にとって当たり前のことだった。親の生前と死後で違うのは冷たくなった親の頰を触った経験が加わるか加わらないかだけの違いだ。お葬式が終わってニューヨークに帰って来た自分の前には以前と何も変わらない日常と先延ばしにされてぎっしりになってしまったスケジュールがあるだけだった。ニューヨークでの生活自体が今の自分にとっては現実逃避のようなもので、実感が湧かないのも無理はないのかもしれない。 

ほんのつい最近までは自分でも上出来だったと思ってたのに、日に日に後悔の念が増していることがある。それは、母の誕生日に電話しなかったということ。何度も電話を手に取りかけて、結局電話しなかった。確かに話しづらいのは承知の上だったが、かけようと思えばかけられたはずだ。なのにかけることができなかった。本能が母との別れが近いことを既に感じ取っていたのか。確実に死が近づいている母と対峙するのがただ怖かっただけなのかもしれない。 
耳が遠かろうがなんだろうが、電話で声を聞かせてあげれば良かった。ネックレス本当に気に入ったのか、直接本人に聞いておけば良かった...なんで誕生日おめでとうって、産んでくれてありがとうって直接言えなかったんだろう...手紙で思いは伝わったはずなのにモヤモヤは増すばかりだ。



"おかん、俺のこと産んでくれてありがとう。俺、おかんの息子で良かったよ。" 


そして、手紙でも言えなかったこと、 


"おかん、一緒に住んであげられなくてごめんな..." 



そして、もうこの世には父親も母親もいなくなってしまった。なんとも言い表せない虚無感は突然夜中にやってくる。そんな夜はこうやって湧き出た思いを文字に落とし込んでは消し、また書いての繰り返しだ。それでも最後はこんな想いで締めくくるようにしている。 

"残された自分ができる唯一の親孝行、それは残りの自分の人生を謳歌すること。ふさぎ込んで殻に閉じこもってしまうことだけはしたくない。"                   

日本を出て海外生活が長くなってくると、自分はどこへ骨を埋めたいのかって考えるようになる。

"死んだら骨を粉々にして海にまいてくれ。"

そういう人も結構いるかもしれない。じゃあどこの海へ? 

自分はどこでどう生き、どういう最期を迎えたいのか、答えを探し続けることが生きるってことなのかなと思う。


自分の人生なんだから。

自分が出す答えしか正解は無いんだから。 






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